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2011/06/03

アンダイの周期十字架

さらに、この学問を熱望する者たちが、他人の脳ではなくて自らの脳で考えることを望む・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

権力の頂点を極めていたアドルフ・ヒットラーは、わざわざアンダイの塔があるスペインとフランスの国境の接したバスク地方にまで足を運び、その塔に彫られている非常に重要な意味が隠されているシンボルを見にきた。

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フルカネリ著 「大聖堂の秘密」より・・・

アンダイはスペインとフランスの国境に接した、バスク地方の小さな町であり、ピレネー山脈の起伏の始まるあたりに、小さな家々の立ち並ぶその姿を見せている。

緑の海と陽光に輝く流れの速いビダソア川の河口と、草の生えた山々が町を取り囲む。この険しい土地に与える第一印象は、かなり不快であり、敵対的ですらある。人を寄せつけぬ土地の厳しい自然が、緑青色にきらめくビスケー湾の沖に伸びたスペインの隣町フエンテラビアのぎらつく陽光で黄土色に染まった岬にのって、水平線まで続いている。

スペイン風の住居、住人の方言と気質、豪華なホテルがこれ見よがしに立ち並ぶ最近できた海水浴場を除けば、アンダイに観光客や考古学者や芸術家の関心を惹くようなものはなにもない。

駅から線路沿いの田舎道を歩くと、やがて町の中心にある小教区教会につく。頭部のない、どっしりとした角塔のある建物で、まわりよりも数段高くなった教会前広場にそっけない壁面をみせている。純重で欲な、何度も改築されたつまらぬ聖堂である。しかし、南翼廊のそばには、簡素であるとともに奇妙な十字架の石碑が、広場を縁取る深い緑の陰につつましく立っている。

この十字架はかつては町の墓地の飾りであり、今日立つ教会脇に運ばれたのは1842年のことにすぎない・・・・というのが、長年聖具室係を務めたバスクの老人の話である。由来は不明で、それが立てられた時代については何一つ資料が見つからなかった。しかし、台座と円柱の形態から見て、この十字架は17世紀末か18世紀初頭より古いものではなかろうと思われる。

それはともかくとしても、アンダイの十字架が、その台座の装飾によって、原始至福千年説の象徴表現としてはかつて見たことのない、
もっとも特異で稀有な作例となっていることにかわりはない。この学説は、最初容認されたのち、オリゲネスやアレクサンドリアの聖ディオニュシウスや聖ヒエロニムスによって攻撃されたが、教会によって糾弾されることは少しもなく、古代ヘルメス哲学の秘伝の一部をなしていたのだ。

浮き彫りの飾り気のなさと仕上げのぎこちなさは、この石の象徴作品が熟練の彫刻師の仕事ではないかのように思わせる。しかし、美学的な要素を度外視すれば、深い学問と真の天地学的知識が、この無名の職人の手によって見事に具現されていることがわかるだろう。

ギリシア十字形をしたこの十字架の枕木には、月並みな碑文が、奇妙なことにほとんど切れ目なく二行にわたって浮き彫りにされている。以下に刻まれた通りに書き記すことにしよう・・・・

OCRUXAVES PESUNICA

言葉の復元は簡単であり、意味もおなじみである。すなわち 「我らの唯一の希望、十字の木よ」「オー・クルックス・アヴェ・スペス・ウニカ」である。しかし、素人のように書いてある通り読もうとすれば「足」=pesについても、「十字架」=cruxについても、意味は不明であり、このような祈りの文句に面喰うだけであろう。それに、字面通りの読み方のためには、文法の基礎まで無視してしまう鷹揚な態度が必要である。

というのも、男性主格の「Pes」は同性の形容詞「unicus」を要するはずであり、女性形の「unica」ではないからである。そのため、「spes」=「希望」という語から最初の子音がずれて「pes」になってしまったのは、彫刻師の不注意による偶然の結果のように見える。

しかし、こんな奇妙な仕事をはたして経験不足の一言で解釈して良いものだろうか?実際に同じ彫刻師の手によるおなじ技法で仕上げられた他のモチーフと比較すれば、正常な配置や均衡に周到な注意が払われていたことは一目瞭然である。

碑文を良く見れば、明瞭であり、文字のならびに凹凸もないのである。つまり、職人はおそらく彫る前に白亜か木炭で一つ一つの文字を石に描いておいたはずであり、そうすることで、彫刻の際にはいかなる過失も起こりえなかったはずなのだ。しかし、実際にはこの過失が存在している以上、この「あきらかな間違い」は望まれたものとしか考えられない。仕上げに不可解なぎこちなさが見られるのも、観察者の関心を惹くための意図的な記号なのであろう。したがって、この厄介な作品の作者は、あくまでわざとこのように文字を並べたはずである。と言わねばならない。

このモニュメントのキリスト教碑文を、いかなる秘鑰(ひやく)をもちいて、どのように解読すべきかについては、台座の観察によってもすぐにわかるのだが、読者には、隠された事物の解明において、一体どのような要素が明確な論理と良識をもたらしうるかについて述べておきたい。

蛇のようにうねったSの文字は、ギリシア文字のΧ(カイ)に相当し、カイの秘教的な意味を秘めている。これは世の終わりの際に宇宙空間において軌道の頂点に達した太陽が描く螺旋状の軌跡であり、黙示録の獣、つまり最期の審判の日に大宇宙の創造物に火と硫黄を吐きかける竜の理論上のイマージュである。

意図的に向きを変えられたSの象徴性のおかげで、この碑文が秘密の言語、すなわち「神々の言葉」あるいは「小鳥たちの言葉」において解読されるべきこと、また「公文書の規範」をもちいてその意味をみいださなくてはならない。これらの言語については、何人かの著述家、とくにグラセ・ドルセが「ルヴェール・ブリタニック」誌に掲載した「ポリフィルス狂恋夢」の分析において、十分明確に述べているので、いまさら説明する必要もあるまい。

そのため、まず碑文を  フランス語、外交官の言語、書いてあるとおりのラテン語で読む。続いて母音を交換して別の文章を構成する新たな語の半階音を得る。そしてその文章の語の順序を再構築して意味を割り出す。さて、そうようにすると・ 「生命はただ一つの場所に逃れると記されている」という奇妙な文が得られる。そして我々はこの二重の天変地異が起こるときにも、死が人間に達しえない地方(場所)があることを知る。

この選民たちが黄金の時代のふたたびやって来るのを待つ。約束の地の地理的な位置については、われわれは自力でそれを探さなくてはならない。聖書の言葉によれば、エリアの子たる選民たちは、その深い信仰と尽きない忍耐によって、光たるキリストの弟子の位にまで引き上げられるに値すると認められて救われるのである。かれらは選民としてのしるしを持ち、消失した人間の伝統の鎖を新しく生まれる人間へ結びつける任務を主から受けるのである。

十字架のおもて面ーーー贖罪者の苦しむ肉体を忌むべき木に留めた恐ろしい三本の釘を受けた面の腕木には「INRI」の文字が彫刻されている。これは台座の図案化された周期の図像に一致している。したがってここにはひとしい拷問の道具である二つの象徴的な十字架がある。

つまり、上部の、贖罪のために用いられた「神の十字架」と下部の、北半球の極を定め、贖罪の運命の時期を時の中に位置させる「地球の十字架」である。父なる神は炎を放つこの地球を手にする。そして世界の四時代の歴史的象徴である四大世紀もまた、同じ標章によってあらわされる君主をそれぞれ持つ、すなわちアレクサンドロス、オクタウィアヌス、シャルルマーニュ、ルイ14世である。

「INRI」の文字は、顕教的には 「ユダヤの王ナザレのイエス」=「Iesus Nazareus Rex Indaorum」と教えるのであるが、十字架を借りた秘教的意味としてここでは「性質は火によって完全に再生される」=「Igne Natura Renovatur Integra」と教えるのである。

というのも我々の北半球がまもなく試練にかけられるのも「火の力」「火の内」によるからである。卑金属から金を選り分けるのも、また聖書によれば最期の審判の日に善人を悪人から分離するのもこの「火」によるのだ。

太陽、月、大きな星、太陽周期

十字架台座の四面にはそれぞれ異なる象徴が見つかる。まず「太陽」であり、次は「月」であり、その次は「大きな星」であり、最期は先ほど述べた通り「太陽周期」をあらわすために達人たちが用いた図にほかならぬ幾何学図形である。

これは直交する二直径が四区分をなす単純な円で、それぞれの区分には世の四時代「age」をあらわす「A」の文字が四箇所に書き込まれている。天と地、教権と世欲権、マクロコスモスとミクロコスモスをあらわす
伝統的な記号によって構成されたこの宇宙の完全な標章には、贖罪(十字架)と世界(円)の二つの主要な象徴をみることができる。

この四つの周期上の時代は、古代においては一般に四福音史家か、その象徴文字であるギリシア文字のアルファか、さらには十字の生きた人間的表現であるキリストを取り囲む四福音史家の象徴たる四頭の動物によって表現された。

半円形壁画(アルル・サン・トロフィーム教会)

これはロマネスク寺院の半円形壁画(タンパン)や玄関でいつも目にする伝統的な定型表現である。「アマンド・ミスティーク」と呼ばれる円が左手を本に載せ、右手を持ち上げて祝福の仕草をして座るイエスを、付随する四動物から隔てている。

この群像はふつう雲の輪飾りによって他の図像から絶縁され、ちょうどシャルトル大聖堂の王の入り口、ル・マン大聖堂の西正面玄関、オート・ピネリー県のリュズのテンプル騎士団教会、ヴィエンヌ県のシヴレー教会、アルルのサン・トロフィーム教会の正面玄関などにみられるように、いつも同じ順序で配置されている。

「・・ 王座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。この王座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔をもち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった・・・・」という黙示録における対応関係はエぜキエル書のそれと同じである。

「・・ 私が見ていると、北のほうから激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に火を放ちながら吹いてくるではないか。その中、つまりその火の中には、琥珀金の輝きのようなものがあった。またその中には、四つの生き物の姿があった・・・・・その顔は人間の顔のようであり、四つともに獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた。」

古代インド神話では、十字に仕切られた円の同一四区分は、特異な神秘的概念の基礎となっている。人間の生命の周期が、四つの足を世のそれぞれの時代区分においた美徳を象徴する牡牛で表現されているのだ。

ギリシア人の黄金時代にあたる「クレダユガム」あるいは第一の時代、つまり「無垢の時代」には、美徳は大地の上にしっかりと立つ。牡牛はしっかりと四本の足で立っている。

「トレダユガム」あるいは第二の時代、つまり「銀の時代」になると牛は衰え、もはや三本足でしか立っていない。「トゥヴァバラユガム」あるいは第三の時代、つまり「青銅の時代」になると足は2本に減る。

そして最期に我々の時代である「鉄の時代」になると、周期牡牛あるいは人間的美徳は衰弱と老化の極みに達している。たった一本の足でグラグラしながら、かろうじて立っているのだ。

これは第四番目の時代で最期の時代である「カルユガム」すなわち「荒廃、貧困、不幸」の時代である。現代の「鉄の時代」には死の印璽があるだけである。

その象徴はサトゥルヌスの標章ーーー「時の満了を示す空の砂時計」と「変化、破壊、消滅の数字」=「7」をあらわす鎌を手にした骸骨である。この災いの時代の福音書は聖マタイの霊感によって書かれた福音書である。マタイはギリシア語で「マタイオス」であり、この語は「学問、知識、学習」を意味する言葉を生む。つまりマタイによる福音書は「学問」による福音書である。

すべてのもののうち「最期」であるが、われわれにとっては「最初」のものである。なぜなら、それは神に選ばれたごく一部の者を除いて、われわれが皆そろって死ななくてはならないことを教えるからである。

また天使が聖マタイの標章であるのは、事物や人間や、その運命の秘密を見抜くことのできる唯一の手段である「学問」が、至高の真理の理解の高みへ至るための、そして 「「神へ達するための翼を人間に与えうるため」」 である。

結び・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「知ること。可能にすること。断行すること。沈黙すること。」

・・・・・・・ゾロアスター

自然は聖域の扉を誰にでも一様に開くわけではない。欲人は本書の中に真実で確実な一つの学問が世に存在する証拠を見出すであろう。とはいえ私は欲人を改宗できるなどとは思っていない。先入観や偏見といったものが、どれほど強力で頑固か知らぬわけではないからである。

一方、錬金術の徒は本書からより多くの益を引き出すであろう。ただし、老哲学者たちの著作を微塵も軽視することなく、作業手引きの不明な点をはっきりと見極める洞察力を身につけるまで、細心の注意をもって古典を深く研究すればの話である。何人も、自らおこなった研究の規模を超えて、大いなる秘密を所持すると主張することはできない。

確固とした行動理念がないのなら・・・熱狂が過ぎて理性に狂いがあるのなら・・・傲慢のために判断に誤りがあるのなら・・・物欲から黄褐色の金の星を求めるのなら・・・単に忍耐強く積極的な努力家であってもだめである。

この玄奥の学問は、事物の観察における正確さと厳密さと洞察力を、冷静で論理的で健全な精神を、そして、熱く純粋な心を要求する。また書物への妄信やその著述家の名声のために、何の疑いもなく一般に認められているような理論や体系や仮説に対する完全な無頓着と最高度の無関心を要求する。

さらに、この学問を熱望する者たちが、他人の脳ではなくて自らの脳で考えることを望む。

最期に、探求者がこの学問の行動原理の真理と、その学説の知識と、作業の実践を、我々の母たる自然へと求めることを強く望む。新参者は観察眼と思考力のたゆまぬ鍛練と沈思によって 「知」 への階段を一段ずつ昇るであろう。

自然な技法のありのままの模倣と、創意工夫に結びついた熟練と、長い経験の光が術を 「可能」 にするであろう。術をなす者にもさらなる忍耐と揺るぎない意志が必要である。大胆果敢で、固い信念に根ざした確信と信頼を持てばどんなことでも 「断行」 できるであろう。

長年の艱難辛苦の成果がついに実り、望みがかなえられると、賢者は世の虚飾のすべてを無視して、現世の貧しき人、恵まれぬ人、労する人々、苦しむ人々、闘う人々、絶望する人々、泣く人々に歩みよるであろう。
そして、永遠なる自然の無名で啞の弟子、永遠の慈愛の使徒として、沈黙の誓いを忠実に守り続けるであろう。奥義通暁者は、学問と善事においては永遠に「沈黙」するのである。

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月の神秘性に関して・・・

http://weedweedweed.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-51d0.html


東洋のアデプトたちは常に月に対しては不思議なほど沈黙を守っている。581節「銀の時代のアデプトたちいわく、あのオーブの向こう側の半球には非常に興味深い人々がいる。彼らは月から徐々に水がなくなり大気が薄くなっていく長時間の過程でも生き延びている。

同様の大いなる過程がわれらの地球を大変動に導き、地球の魂に入り込み、物理的な若さを刷新することで豊かな壮麗たる未来を開こうとしている。とある古代の書を翻訳して読みきかせよう。

“銀の人のアストラル科学の時代、夜空にあって光を放つ主役は災厄を目撃してきた老女であるとされていた。彼女はとある古いオーブから解放されたのである。

彼女の主人であったオーブは大いなる緊張の果てにばらばらになってしまった。いわく、災厄ののち、この地のオーブのレディーにつかえる侍女になったのだという。老女は半身を失っているという。

すなわち片腕と片足しかない。大変な努力をして顔と胸を片方に寄せ、他の部分を地上の民に見せないようにしている”この教えはすなわち月が常時地球に一面しか見せていないことを比喩的に表現したもので、それは何百万年も前に発生したことだといわれた。」

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「 Cross of Hendaye 」     http://vimeo.com/7396198


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